彼の隣には、繊細で美しい女性の姿があった。ピンク色の床まで届くロングドレスを着ており、雨に濡れて裾が少し乱れていたものの、気品の良さは隠しきれていなかった。彼女はそっと男性の腕に寄り添っている。二人の姿は完璧なカップルのように見えた。「もう二度と会わないと思っていたのに、再会するとは。それもこんな形で......」心の中で呟きながら弥生は立ち尽くした。この数年で、彼らはきっと一緒になったに違いない。子供もひなのと陽平と同じくらいの年齢になっているだろう。考えに耽る弥生に、男性が何かを察したように振り向いて目を向けてきた。弥生は思わず息を呑み、反射的に背を向けた。さっき......見られていないわよね?弥生は体が硬直し、その場から一歩も動けなくなった。すると後ろから友作の声が聞こえた。「霧島さん?」彼女の指先がかすかに動いたが、振り返ることはできなかった。友作が彼女の前に回り込んでくる。「どうかしましたか?」「あっ、もう終わったの?」「ええ、終わりました。すでに品が渡されました」「落札できた?」「もちろんです」友作は頷きながら少し残念そうに付け加えた。「ただ、かなりの金額を使いました。あの宮崎さんが......」口を滑らせそうになったが、途中でハッとして言葉を飲み込んだ。二人とも空気を読み取った。しばらくの沈黙の後、弥生が言った。「もう終わったなら、帰りましょう」「分かりました」弥生は友作を観察した。彼の自然な様子を見て、瑛介はもう会場を離れたのだろうと思った。瑛介がまだいたら、友作は自分より緊張しているはずだ。そう気づいてから、彼女はゆっくりと振り返った。案の定、先ほどの喧騒は収まって、人混みもほとんど消えていた。あの目立つ男女の姿も、もう見当たらなかった。弥生の張り詰めていた気持ちがようやく和らいだ。夜、弥生と千恵が再び外出することを知った友作は心配になった。「こんな遅い時間に出かけるのは危ないですよ......」友作が心配げに言うと、すぐさま千恵が反論した。「あら、夜10時って遅いの?あなたはまだ若いのに、おじいさんみたいよ!」「いや、夜道は危険だということですよ」「危険なはずはないよ。安心して」弥生も千
何かを思い出したように、弥生は時間を確認し、千恵に尋ねた。「あの男は?」これを聞いた千恵の表情がみるみるうちに曇っていった。「この時間に、彼が来るかどうかなんて全然分からないわ」弥生は彼女の落ち込んでいる様子を見て、微笑みながら肩を軽く叩いた。「大丈夫よ。運試しだと思えばいいじゃない。もし彼が来なくても、ここで少しゆっくり過ごすだけでもいいし」千恵はすぐに笑顔を取り戻し、親しく彼女の腕にしがみついた。「弥生ちゃん、やっぱり最高ね!私たち、これからもずっと一緒よ!」その後、二人はしばらくバーでのんびりしていた。その間に三、四人の男性がワイングラスを持って弥生に近づき、一緒に飲もうと誘ってきたが、彼女は丁寧に断った。最初の数人は拒否されても潔く立ち去ったが、最後の一人だけはその場を離れず、不思議そうに尋ねた。「すみません、どうしてですか?」これを聞いて、弥生は眉を上げた。「断る理由を教えてもらえますか?」と、男性は軽く笑いながら言った。「友達になるくらいなら、別に構わないと思うのですが」弥生は相手の意図を見抜いたようで、落ち着いて答えた。「既婚者だからです」その言葉を聞いて、男性の目には驚きの色が浮かんだが、すぐに残念そうに肩をすくめた。「失礼しました、それじゃ......」彼が去った後、千恵がからかうように言った。「あなた、やるわね。昔はもう少し優しかった気がするけど、今は強く断ることができるようになったみたいね」弥生は肩をすくめた。「その方が良くない?余計な手間が省けるし」「そりゃそうだけど、こんな風にしてたら、縁は消えちゃうわよ。再婚したくなくなるかもよ?」「再婚?子ども二人いるんだから、男なんて必要ないでしょ?」その言葉を聞いて、千恵は弥生の可愛い子どもたちを思い浮かべて、羨ましそうに言った。「ずるい!私もそんな可愛い子どもがいたら、きっと男なんていらないって思うわ。でもさ、次にあの男に会ったら、子供をもらえないか頼んでみようかしら?」弥生は彼女の言葉を聞いて、飲み物でむせた。千恵は慌てて声を上げた。「大丈夫?!」彼女はすぐにティッシュを取り出して弥生を拭おうとしたが、飲み物が彼女の白いコートにこぼれ、大きなシミを作ってしまった。「もう落ちないね。
その腕時計を見た瞬間、弥生の頭の中にアラームが鳴り響いた。彼女はその場を立ち去ろうと足を踏み出したが、一歩遅かった。千恵の正面に座っていた男性が、無意識のように弥生がいる方へ目を向けた。二人の視線が空中で交差した瞬間、それはまるで脱線した列車同士が正面衝突し、火花が散って、崩壊するような衝撃が彼女を襲った。男性はグラスを持ったまま、冷静さと無関心な表情を保っていたが、その顔は一瞬で固まった。彼の正面に座っていた千恵は、何が起きたのか気づいていなかった。彼女は連絡先を聞き出したい一心で、少し気まずそうに彼に向かって話しかけ続けていた。彼女は距離が近すぎるせいで、顔を上げて瑛介を見つめることすらできず、ただ彼をちらちらと盗み見ていた。「えっと......ここだけの話だし、連絡先を交換してもらえませんか?誤解しないで、連絡先を交換したところで、迷惑をかけるようなことはしませんから!」だが、彼女が一生懸命話しても、男性はまったく反応を示さなかった。不思議に思った千恵が顔を上げて彼を見ると、次の瞬間、男性は突然立ち上がり、素早くその場を離れてしまった。千恵が振り返った時には、男性はすでに遠くに行ってしまっており、さらに彼の背後にもう一人誰かが居た気がした。千恵はその場に立ち尽くし、混乱した表情を浮かべた。「なんで急に行っちゃったの?」そして、さっき見えた後ろ姿を思い出した。「さっきの背中......弥生だったのかな?」弥生はできる限り速く歩いていた。むしろ、すぐにでも羽を生やしてこの場を飛び去りたいほどだった。まさか千恵が憧れている男性が彼だったとは......五年越しの彼はどんな人間になったのだろう?すでに奈々がいるのに、どうしてこんなところに来て、他の女性を欺くようなことをしているのか。弥生の頭は完全に混乱しており、無意識のうちに駆け出していた。自分がなぜ走っているのかも分からない。自分は何も後ろめたいことはしていない。五年前も互い納得の上での離婚だった。何を逃げる必要があるというのだろう?しかし、後ろから近づく足音が乱れるたび、弥生は足を止めることができなかった。目の前に女性用トイレの看板が見えた時、慌てふためいた弥生はとっさにそこに隠れることを決めた。だが、トイレの入り口に
廊下は突然静まり返った。弥生は激しく息を切らし、胸が上下に激しく波打っていた。肩にもたれかかっている男は、微動だにしなかった。どういうこと?さっきまではまだ......弥生がもう一度彼を押し返そうとしたその瞬間、彼が口を開いた。「弥生......」その声はまるで夢の中で話しているかのようだった。彼の頭は彼女の肩に凭れており、この囁きは弥生の耳元で響いた。そのため、彼女にはその言葉がはっきり聞き取れた。自分を呼んだ?弥生は呆然と立ち尽くし、目の前でぐったりしている俊美の男を暫く見つめていた。彼の体に漂うアルコール臭と酔いつぶれた様子がとても嫌いだと弥生は感じた。その時、遠くから誰かの声が聞こえてきた。「弥生?大丈夫?」それは千恵の声だった。弥生は慌てて肩にもたれかかる瑛介を突き放した。バタン酔い潰れた瑛介は勢いよく後ろに倒れ込んだ。だが、地面にぶつかる寸前で、弥生は彼の腕を掴んだ。しかし、引っ張られた弥生はバランスを崩して、そのまま彼の体に倒れ込んだ。その瞬間、千恵が廊下の向こうから現れて、この光景を目撃した。「弥生......どういうこと??」弥生は深呼吸して、千恵の前で冷静を装いながら瑛介の胸元に手をついて体を起こした。千恵は状況を把握できないまま、弥生に問い詰めた。「あなたたち......」立ち上がった弥生は、服を整えて、髪を軽く払った後、平然とした表情で答えた。「ついて来たの」彼女は千恵の疑問を受けながらも動じることなく言葉を続けた。「この人、酔っ払いよ。女子トイレに突っ込んできたかと思えば、私に手を出そうとしたの」その言葉を聞いた千恵は驚愕した。「手を出そうとした?そ、そんな......まさか」しかし、彼女はすぐに友人である弥生を信じるべきだと意識した。一方で、地面に横たわる男を見下ろすと、複雑な表情を浮かべた。「弥生、ちょっと待って。この人、私がずっと言ってたタイプの人なの。これは何かの誤解かもしれないよ。彼、酔っ払ってたからきっと無意識だったんだと思う」弥生は目を伏せて、早めに相手の印象を悪くしておこうと思った自分の考えを後悔した。予想外にも、千恵が瑛介をかばうなんて。「紳士なら、酔っ払ってもそんなことをしな
この出来事は厄介な方向に進んでいるみたいだった。弥生は、千恵に瑛介にはすでにパートナーがいることを知らせ、完全に諦めさせようと考えていた。しかし、同時に、自分と瑛介の間に何かしらの関係があることを千恵に知られたくはなかった。弥生はこの板挟みの状況に陥ってしまった。「ごめんね。あのう、今日は先に帰ってもらえない?」弥生が思案にふけっていると、突然千恵の声が聞こえた。弥生は暫く呆然とし、それから問いかけた。「一緒に帰らないの?」千恵は唇を噛んで、しばらくしてから首を横に振った。「彼のことが心配なの」「あなたをここに残して安心して帰れると思うの?」そう言われて、千恵はようやく笑みを浮かべて、小さな声で言った。「大丈夫だよ。それに、もし何かあったとしても、それは私が望んでいることかも」何年も千恵と付き合ってきたが、彼女がこれほど恋愛にのめり込むタイプだとは思ってもみなかった。弥生は歯を食いしばって、こう言った。「ダメ、やっぱり危ないと思う」「いいよ、いいよ私を信じて!彼はあなたが思っているような悪い人じゃない。本当に誤解なの」「彼のことをどれだけ知ってるの?」呆れた気持ちを隠しつつも、弥生は友人としての責任感から今日ここに来た以上、彼女を説得する義務があると感じていた。「知り合って半年も経つんだから、それで十分でしょ?」弥生は鼻で笑った。「本当に?じゃあ彼の名前、年齢、職業、さらに......」ここで彼女は一瞬言葉を止め、それからこう続けた。「彼が結婚しているかどうか知っているの?」「そんなはずはないでしょ」最初の質問には答えられず黙り込んでいた千恵だったが、最後の質問に対しては即座に反論した。「どうしてそんなことを断定できるの?他の質問には何も答えられなかったのに、最後の質問だけ反応が早いわね。それが彼には無理だと確信しているのか、それともあなた自身がそう思いたくないだけ?」千恵は鼻を鳴らし、眉をしかめて言った。「もし彼が結婚しているなら、いつも酒場で酔いつぶれるようなことはしないと思うけど」「なぜそんなことが言えるの?」弥生はこれ以上無駄な言い合いを避けるため、千恵の腕を引きながら言った。「一緒に帰ろう」「弥生!」「どうしたの?今日のあなた
「友達?女性なの?」「そんなわけないでしょ!男だよ!」男性の友達?もしかして綾人のこと?「彼をこのままバーに放置しておくのは良くないわ」弥生は少し考え、提案した。「もしどうしても彼のことが心配なら、お店のほうに預けて、オーナーから彼の友人に電話をかけてもらったらどう?」これは瑛介を助けるための一番いい方法だ。もともと弥生もそのつもりだった。だが、千恵は瑛介に長らく恋心を抱いており、どうやら弥生の提案に従う気はなさそうだった。少し考えた後、千恵は唇を噛みしめて言った。「店主を頼るのって、迷惑じゃない?タクシーを呼んで、ホテルまで送る方がいいと思うけど」それを聞いた弥生は予想していた通りだといった表情を浮かべた。「それで、後は?」千恵は少し恥ずかしそうにしながら言った。「まあ、その後は私が何とかするから、心配しなくていいよ」弥生は深く息を吸って、心の中の怒りを押し殺し、平静な声で答えた。「分かったわ。じゃあ一緒に行く。彼をホテルまで送って、彼が無事だと確認したら帰りましょう」千恵は何か言おうとしたが、弥生の様子を見て、怒っていることに気づき、それ以上反論しなかった。「分かったわ。じゃあ行きましょう」その後、二人はバーのスタッフを手伝いに呼んで、瑛介をタクシーに乗せ、近くのホテルまで運んだ。ホテルではチェックインに本人確認書類が必要だった。「ちょっと彼を支えてて。私の身分証明書を探すから」仕方なく、弥生は瑛介を支えることになった。彼を支えた途端、その全体重が弥生にのしかかり、彼女は一歩後ずさりしてなんとか体勢を整えた。酒の匂いと男性特有のフェロモンが彼女の呼吸を侵食していた。5年ぶりに感じるこの馴染みのある感覚に、弥生の胸が苦しくなった。誰も見ていないところで、彼女は自分の唇を噛みしめた。もし千恵がいなければ、瑛介をそのまま突き飛ばしていたかもしれない。ホテルのスタッフが身分証明書を受け取って、尋ねた。「ご宿泊されるのは何名様ですか?」千恵は最初、自分だと言おうとしたが、弥生がいることを思い出して言い直した。「一人です」「承知しました。では、この男性のお客様の身分証明書をいただけますか?」「彼の身分証?」千恵は目を瞬かせた。「彼、酔っ払ってる
瑛介をホテルの部屋に運び込むことは大変だった。彼をベッドに放り投げた後、弥生はその場に立ち尽くし、息を切らしていた。それから千恵にちらりと目を向けた。千恵はその意図をすぐに理解し、慌てて尋ねた。「私......ここに残ってもいい?」「ダメって決まっているでしょう」弥生は即答で彼女の言葉を遮った。「帰るわよ。彼ならここで大丈夫じゃない」「でも......彼、酔っ払ってるんだよ?ホテルに一人でいて本当に大丈夫なの?」弥生は冷静に答えた。「それで?まさか、彼のそばに残りたいなんて言うつもりじゃないでしょうね?」千恵は気まずそうに笑った。「違うよ!ただ、彼のスマホで友達に連絡するのはどうかなって思っただけ」「彼のスマホのパスワード、知ってるの?」「知らない」「じゃあどうやって電話するつもり?」「あ......そうだね」千恵は指先でそっと触れ合いながら考え込んだ。「でも、本当に心配だよ」「彼は大人だし、ただの酔っ払いよ。あなたも以前、しょっちゅう酔っ払ってたじゃない」そう言われて、千恵はようやく冷静になった。以前、自分が酔っ払った時のことを思い出し、両親がどれだけ心配してくれたかを改めて実感した。心配する気持ちは理解できるが、弥生の言葉で少し落ち着きを取り戻した。「まあ......そうだね」そう言いながらも、彼女は後ろ髪を引かれる思いで弥生に続いてホテルを後にした。ホテルを出ると、千恵は先程の出来事を思い出し、好奇心を露わにした。弥生が瑛介のズボンのポケットから財布を取り出し、すぐにその中のカード類を避けて、正確に身分証を取り出した場面だ。「ところで、どうして彼の財布がポケットにあるって分かったの?めちゃくちゃスムーズだったけど、それにどうして彼の身分証がどこにあるかまで分かったの?」海外で5年も過ごしていたとはいえ、千恵は二人が昔知り合いだったのではないかと疑い始めた。財布をポケットから見つけるのは普通のことだが、財布の中身まで素早く把握できるのはどう見ても普通ではない。弥生は歩みを止め、一呼吸置いて言った。「私が『適当に予想がついた』と言ったら、信じてくれる?」千恵は目を瞬かせて、弥生をじっと見つめた。「それ、『昔付き合ってたんだよ』って言うよりも
「さっき彼のポケットに何か入れたの?」そう聞かれると、千恵は一瞬動きを止めて、その後、視線を明らかにそらした。「何?」弥生は何も言わず、ただ黙って彼女をじっと見つめた。その視線だけで、千恵はすっかりプレッシャーを感じ始めた。「分かった、分かったよ。彼にメモを残しただけ!だって、彼のスマホはロックがかかっていて解除できなかったし、連絡先も交換できなかったんだもの。だから、私の連絡先を渡したの。別にいいでしょ?それに、私は彼を助けたんだから、目が覚めたら、私のこと恩人だと思うかもしれないし!」その「恩人」という言葉が、弥生の心をどこか深く刺した。彼女は表情を一瞬変え、そっと顔を背けてそれ以上何も言わなかった。千恵は話し続けたが、弥生が全く反応しないことに気づき、彼女の顔を伺った。いつの間にか弥生は窓の外を見つめていた。窓ガラスに映るその顔には一切の表情がなかった。その姿はどこか寂しさを漂わせているようにも見えた。「どうしたの?」千恵は突然、不安を感じた。さっき自分が何か変なことを言ってしまったのではないかと心配になり、指先をいじりながら必死に思い返していたが、どうしても理由が思い当たらなかった。最後には、彼女は弥生にこわごわ尋ねるしかなかった。「もしかして私さっき何か悪いこと言っちゃった?」その声で、弥生はようやく我に返った。「何でもないわ」千恵が心配そうにじっと彼女を見つめているのに気づくと、弥生は自分が少し気を抜いていたことを思い出した。「本当に?」千恵は疑わしそうな顔をした。「でも、さっきのあなた......」「ええ、少し考え事をしていて、ぼーっとしてただけ」「本当に何でもないの?私がさっき何か言って、不機嫌にさせちゃったんじゃない?」弥生は軽く千恵の頬をつまんで、軽い調子で答えた。「あなたの言葉で、私が機嫌を悪くすることなんてないでしょ?考えすぎないで。もうすぐ着くわよ」彼女が冗談を言う余裕を見せたことで、千恵はようやく安心した。「ならいいけど」住宅地の入口で厳密に管理がされている住宅地のため、登録のない車両は中に入れない。最終的に、弥生と千恵は徒歩で進むことにした。家の近くまで来たとき、千恵が急に前方を指さして言った。「あれ、玄関に誰かいるよ!」その言葉
二時間後、飛行機は南市に到着した。事前に心の準備をしていたとはいえ、飛行機を降り、見慣れた空港の光景が目に入ると、弥生の指先は無意識に微かに震えた。五年前、彼女はここから去った。それから五年が経ったが、空港の様子はほとんど変わっていない。最後尾を歩く弥生の心は、ずっしりと重く感じられた。彼女が物思いにふけていると、前を歩いていた瑛介が彼女の遅れに気づき、足を止めて振り返った。だが弥生は気づかず、そのまま真正面からぶつかった。ドンッ。柔らかな額が、しっかりとした胸に衝突した。弥生は足を止め、ゆっくりと顔を上げると、瑛介の黒い瞳が目に飛び込んできた。彼は冷たい声で言った。「何をしている?」弥生は一瞬動きを止め、額を押さえながら眉をひそめた。「ちょっと考え事をしてたの」「何を?」弥生は額を押さえたまま、目を少しぼんやりとさせた。「おばあちゃんは、私を責めるかな?彼女の墓前に行ったら、歓迎してくれるかな?」瑛介はわずかに表情を変えた。数秒の沈黙の後、彼は低く静かな声で答えた。「前に言ったはずだ。おばあちゃんはずっと君に会いたがってた」会いたかったとしても?どれだけ会いたかったとしても、自分は孝行を果たすことができなかった。最期の時ですら、そばにいることができなかった。もし自分が逆の立場だったら、きっと私を恨むだろう。だが、おばあちゃんはとても優しい人だった。そんなことは思わないかもしれない......弥生は自分に言い聞かせるように、そっと息を吐いた。「行こう」空港を出る頃には、すでに夕方六時近くになっていた。空は灰色の雲に覆われ、今にも雨が降りそうだった。ホテルに着いたときには、すでに空気が湿り始めていた。弥生がフロントでチェックイン手続きをしていると、瑛介も一緒についてきた。「家には帰らないの?」彼女が尋ねると、瑛介は何気ない口調で答えた。「そこからお墓まで近い。朝起きてすぐ行けるから」それなら納得できる理由だったので、弥生もそれ以上何も言わなかった。二人はそれぞれ別々に部屋を取った。健司は瑛介と同室で、弥生は一人だった。部屋はちょうど向かい合わせになった。部屋に入ると、弥生は靴を脱ぎ、ふわふわのベッドに倒れ込んだ。外では
瑛介は解決策を弥生に提案した。彼の提案に気づくと、弥生は仕事の集中からふっと我に返り、瑛介を見た。「どうした?間違ってたか?」弥生は眉を寄せた。「休まないの?」瑛介はあくまで冷静に答えた。「うん、眠くないんだ」弥生はそれ以上何も言わず、再び仕事に戻ったが、彼の指摘した解決策を改めて考えてみると、それが最も適切な方法だったことに気づいた。彼女は軽く息をつき、言った。「邪魔しないで」それを聞いた瑛介は、目を伏せて鼻で笑った。「善意を踏みにじるとはな」「君の善意なんていらないわ」瑛介はその言葉に腹を立てたが、彼女が結局彼の提案を採用したのを見て、気が済んだ。そして心の中でひそかに冷笑した。ちょうどその時、客室乗務員が機内食を配りに来た。弥生は仕事に没頭していて、食事を取る時間も惜しんでいた。そんな中、瑛介の低い声がふと聞こえた。「赤ワインをもらおう」弥生はパソコンを使いながら、特に気に留めていなかった。だが、その言葉を聞いた途端、彼女はぴたりと手を止め、勢いよく顔を上げた。じっと瑛介を見つめ、冷静に言った。「まだ完治してないのに、お酒を飲むつもり?」瑛介は特に表情を変えずに返した。「ほぼ治った。少し飲むだけだ」その言葉に、弥生は呆れたように沈黙し、数秒後、客室乗務員に向かって言った。「ごめんないね。退院したばかりなので、お酒は控えないといけないんです。代わりに白湯をお願いできますか」客室乗務員は瑛介を見て、それから弥生を見て、一瞬戸惑ったが、最終的に頷いた。「はい、承知しました」「弥生、そこまで僕を制限する権利があるのか?」瑛介が低い声で抗議した。しかし弥生は無表情のまま、淡々と答えた。「私は今、君の隣の席に座っているの。もし君がお酒を飲んで体調を崩したら、私の仕事に影響するでしょう?飛行機を降りたら、好きなだけ飲めばいいわ」しばらくして、客室乗務員が温かい白湯を持ってきた。飛行機の乾燥した空気の中、湯気がわずかに立ち上った。瑛介は目の前の白湯をじっと見つめた。長時間のフライトで白湯を出されたのは彼の人生でこれが初めてだった。だが、不思議なことに、不快には感じなかった。ただ、問題は......自分からこの白湯を手に取るのが
弥生は瑛介に手を握られた瞬間、彼の手の冷たさにびっくりした。まるで氷を握っていたかのような冷たさ。彼女の温かい手首とあまりにも温度差があり、思わず小さく身震いしてしまった。そのまま無意識に、弥生は瑛介のやや青白い顔をじっと見つめた。二人の手が触れ合ったことで、当然ながら瑛介も彼女の反応に気づいた。彼女が座った途端、彼はすぐに手を引っ込めた。乗務員が去った後、弥生は何事もなかったかのように言った。「さっきは通さないって言ったくせに?」瑛介は不機嫌そうな表情を浮かべたが、黙ったままだった。だが、心の中では健司の作戦が案外悪くなかったと思っていた。彼がわざと拒絶する態度をとることで、弥生はかえって「彼が病気を隠しているのでは?」と疑い、警戒するどころか、むしろ彼に近づく可能性が高くなるという作戦だ。結果として、彼の狙い通りになった。案の定、少しの沈黙の後、弥生が口を開いた。「退院手続き、ちゃんと済ませたの?」「ちゃんとしたぞ。他に選択肢があったか?」彼の口調は棘があったが、弥生も今回は腹を立てず、落ち着いた声で返した。「もし完全に治ってないなら、再入院も悪くないんじゃない?無理しないで」その言葉に、瑛介は彼女をじっと見つめた。「俺がどうしようと、君が気にすることか?」弥生は微笑んだ。「気にするわよ。だって君は私たちの会社の投資家だもの」瑛介の目が一瞬で暗くなり、唇の血色もさらに悪くなった。弥生は彼の手の冷たさを思い出し、すれ違った客室乗務員に声をかけた。「すみません、ブランケットをいただけますか?」乗務員はすぐにブランケットを持ってきてくれた。弥生はそれを受け取ると、自分には使わず、瑛介の上にふわりとかけた。彼は困惑した顔で彼女を見た。「寒いんでしょ?使って」瑛介は即座に反論した。「いや、寒くはないよ」「ちゃんと使って」「必要ない。取ってくれ」弥生は眉を上げた。「取らないわ」そう言い終えると、彼女はそのまま瑛介に背を向け、会話を打ち切った。瑛介はむっとした顔で座ったままだったが、彼女の手がブランケットを引くことはなく、彼もそれを払いのけることはしなかった。彼はそこまで厚着をしていなかったため、ブランケットがあると少し温かく感じた。
「どうした?ファーストクラスに来たら、僕が何かするとでも思ったのか?」弥生は冷静にチケットをしまいながら答えた。「ただ節約したいだけよ。今、会社を始めたばかりなのを知ってるでしょ?」その言葉を聞いて、瑛介の眉がさらに深く寄せられた。「僕が投資しただろう?」「確かに投資は受けたけど、まだ軌道には乗っていないから」彼女はしっかりと言い訳を用意していたらしい。しばらくの沈黙の後、瑛介は鼻で笑った。「そうか」それ以上何も言わず、彼は目を閉じた。顔色は相変わらず悪く、唇も蒼白だった。もし彼が意地を張らなければ、今日すぐに南市へ向かう必要はなかった。まだ完全に回復していないのに、こんな無理をするのは彼自身の選択だ。まあ、これで少しは自分の限界を思い知るだろう。ファーストクラスの乗客には優先搭乗の権利がある。しかし弥生にはそれがないため、一般の列に並ぶしかなかった。こうして二人は別々に搭乗することになった。瑛介の後ろについていた健司は、彼の殺気立った雰囲気に圧倒されながらも、提案した。「社長、ご安心ください。機内で私が霧島さんと席を交換します」だが、瑛介の機嫌は依然として最悪だった。健司はさらに説得を続けた。「社長、霧島さんがエコノミー席を取ったのはむしろ好都合ですよ。もし彼女がファーストクラスを買っていたとしても、社長の隣とは限りません。でも、私は違います。私が彼女と席を交換すれば、彼女は社長の隣になります。悪くないと思いませんか?」その言葉を聞いて、瑛介はしばし考え込んだ。そして最終的に納得した。瑛介はじっと健司を見つめた。健司は、彼が何か文句を言うかと思い、身構えたが、次に聞こえたのは軽い咳払いだった。「悪くない。でも、彼女をどう説得するかが問題だ」「社長、そこは私に任せてください」健司の保証があったとはいえ、瑛介は完全に安心はできなかった。とはいえ、少なくとも飛行機に乗る前ほどのイライラは消えていた。彼の体調はまだ万全ではなかった。退院できたとはいえ、長時間の移動は負担だった。感情が高ぶると胃の痛みも悪化してしまうはずだ。午後、弥生のメッセージを受け取った時、瑛介はちょうど薬を飲み終えたばかりだった。その直後に出発したため、車の中では背中に冷や汗
もし瑛介の顔色がそれほど悪くなく、彼女への態度もそれほど拒絶的でなかったなら、弥生は疑うこともなかっただろう。だが今の瑛介はどこか不自然だった。それに、健司も同じだった。そう考えると、弥生は唇を引き結び、静かに言った。「私がどこに座るか、君に決められる筋合いはないわ。忘れたの?これは取引なの。私は後ろに座るから」そう言い終えると、瑛介の指示を全く無視して、弥生は車の後部座席に乗り込んだ。車内は静寂に包まれた。彼女が座った後、健司は瑛介の顔色をこっそり伺い、少し眉を上げながら小声で言った。「社長......」瑛介は何も言わなかったが、顔色は明らかに悪かった。弥生は彼より先に口を開いた。「お願いします。出発しましょう」「......はい」車が動き出した後、弥生は隣の瑛介の様子を窺った。だが、彼は明らかに彼女を避けるように体を窓側に向け、後頭部だけを見せていた。これで完全に、彼の表情を読むことはできなくなった。もともと彼の顔色や些細な動きから、彼の体調が悪化していないか確認しようとしていたのに、これでは何も分からない。だが、もう数日も療養していたのだから大丈夫だろうと弥生は思った。空港に到着した時、弥生の携帯に弘次からの電話が入った。「南市に行くのか?」弘次は冷静に話しているようだったが、その呼吸は微かに乱れていた。まるで走ってきたばかりのように、息が整っていない。弥生はそれに気づいていたが、表情を変えずに淡々と答えた。「ええ、ちょっと行ってくるわ。明日には帰るから」横でその電話を聞いていた瑛介は、眉をひそめた。携帯の向こう側で、しばらく沈黙が続いた後、弘次が再び口を開いた。「彼と一緒に行くのか?」「ええ」「行く理由を聞いてもいいか?」弥生は後ろを振り返ることなく、落ち着いた声で答えた。「南市に行かないといけない大事な用があるの」それ以上、詳細は語らなかった。それを聞いた弘次は、彼女の意図を悟ったのか、それ以上問い詰めることはしなかった。「......分かった。気をつけて。帰ってきたら迎えに行くよ」彼女は即座に断った。「大丈夫よ。戻ったらそのまま会社に行くつもりだから、迎えは必要ないわ」「なんでいつもそう拒むんだ?」弘次の呼吸は少
「そうなの?」着替えにそんなに慌てる必要がある?弥生は眉間に皺を寄せた。もしかして、また吐血したのでは?でも、それはおかしい。ここ数日で明らかに体調は良くなっていたはずだ。確かに彼の入院期間は長かったし、今日が退院日ではないのも事実だが、彼女が退院を促したわけではない。瑛介が自分で意地を張って退院すると言い出したのだ。だから、わざわざ引き止める気も弥生にはなかった。だが、もし本当にまた吐血していたら......弥生は少し後悔した。こんなことなら、もう少し様子を見てから話すべきだったかもしれない。今朝の言葉が彼を刺激したのかもしれない。彼女は躊躇わず、寝室へ向かおうとした。しかし、後ろから健司が慌てて止めようとしていた。弥生は眉をひそめ、ドアノブに手をかけようとした。その瞬間、寝室のドアがすっと開いた。着替えを終えた瑛介が、ちょうど彼女の前に立ちはだかった。弥生は彼をじっと見つめた。瑛介はそこに立ち、冷たい表情のまま、鋭い目で彼女を見下ろしていた。「何をしている?」「あの......体調は大丈夫なの?」弥生は彼の顔を細かく観察し、何か異常がないか探るような視線を向けた。彼女の視線が自分の体を行き来するのを感じ、瑛介は健司と一瞬目を合わせ、それから無表情で部屋を出ようとした。「何もない」数歩進んでから、彼は振り返った。「おばあちゃんに会いに行くんじゃないのか?」弥生は唇を引き結んだ。「本当に大丈夫?もし体がしんどいなら、あと二日くらい待ってもいいわよ」「必要ない」瑛介は彼女の提案を即座に拒否した。意地を張っているのかもしれないが、弥生にはそれを深く探る余裕はなかった。瑛介はすでに部屋を出て行ったのだ。健司は気まずそうに促した。「霧島さん、行きましょう」そう言うと、彼は先に荷物を持って部屋を出た。弥生も仕方なく、彼の後に続いた。車に乗る際、彼女は最初、助手席に座ろうとした。だが、ふと以前の出来事を思い出した。東区の競馬場で、弥生が助手席に座ったせいで瑛介が駄々をこね、出発できなかったことがあった。状況が状況だけに、今日は余計なことをせず、後部座席に座ろうとした。しかし、ちょうど腰をかがめた時だった。「前に座れ」瑛介の冷たい声が
健司はその場に立ち尽くしたまま、しばらくしてから小声で尋ねた。「社長、本当に退院手続きをするんですか?まだお体のほうは完全に回復していませんよ」その言葉を聞いた途端、瑛介の顔色が一気に険しくなった。「弥生がこんな状態の僕に退院手続きをしろって言ったんだぞ」健司は何度か瞬きをし、それから言った。「いやいや、それは社長ご自身が言ったことじゃないですか。霧島さんはそんなこと、一言も言ってませんよ」「それに、今日もし社長が『どうして僕に食事を持ってくるんだ?』って聞かなかったら、霧島さんは今日、本当の理由を話すつもりはなかったでしょう」話を聞けば聞くほど、瑛介の顔色はどんどん暗くなっていく。「じゃあ、明日は?あさっては?」「社長、僕から言わせてもらうとですね、霧島さんにずっと会いたかったなら、意地になっても、わざわざ自分から話すべきじゃなかったと思いますよ。人って、時には物事をはっきりさせずに曖昧にしておく方がいい時もあるんです」「そもそも、社長が追いかけているのは霧島さんですよね。そんなに何でも明確にしようとしてたら、彼女を追いかけ続けることなんてできないでしょう?」ここ数日で、健司はすっかり瑛介と弥生の微妙な関係に慣れてしまい、こういう話もできるようになっていた。なぜなら、瑛介は彼と弥生の関係について、有益な助言であれば怒らないと分かっていたからだ。案の定、瑛介はしばらく沈黙したまま考え込んだ。健司は、彼が話を聞き入れたと確信し、内心ちょっとした達成感を抱いた。もしかすると、女性との関係に関しては、自分の方が社長より経験豊富なのかもしれない。午後、弥生は約束通り、瑛介が滞在したホテルの下に到着した。到着したものの、彼女は中には入らず、ホテルのエントランスで客用の長椅子に腰掛けて待つことにした。明日飛行機で戻るつもりだったため、荷物はほとんど持っていなかった。二人の子どものことは、一時的に千恵に頼んだ。最近はあまり連絡を取っていなかったが、弥生が助けを求めると、千恵はすぐに引き受け、彼女に自分の用事に専念するよう言ってくれた。それにより、以前のわだかまりも多少解けたように思えた。弥生はスマホを取り出し、時間を確認した。約束の時間より少し早く着いていた。彼女はさらに二分ほど待った
瑛介は眉がをひそめた。「どういうこと?」話がここまで進んだ以上、弥生は隠すつもりもなかった。何日も続いていたことだからだ。彼女は瑛介の前に歩み寄り、静かに言った。「この数日間で、体調はだいぶ良くなったんじゃない?」瑛介は唇を結び、沈黙したまま、彼女が次に何を言い出すかを待っていた。しばらくして、弥生はようやく口を開いた。「おばあちゃんに会いたいの」その言葉を聞いて、瑛介の目が細められた。「それで?」「だから、この数日間君に食事を運んで、手助けをしたのは、おばあちゃんに会わせてほしいから」瑛介は彼女をしばらくじっと見つめたあと、笑い出した。なるほど、確かにあの日、弥生が泣き、洗面所から出てきた後、彼女はまるで別人のように変わっていた。わざわざ見舞いに来て、さらに食事まで作って持って来てくれるなんて。この数日間の彼女の行動に、瑛介は彼女の性格が少し変わったのかと思っていたが、最初から目的があったということか。何かを思い出したように、瑛介は尋ねた。「もしおばあちゃんのことがなかったら、君はこの数日間、食事なんて作らなかっただろう?」弥生は冷静なまま彼を見つめた。「もう食事もできるようになって、体もだいぶ良くなったんだから、そこまで追及する必要はないでしょ」「ふっ」瑛介は冷笑を浮かべた。「君にとって、僕は一体どんな存在なんだ?おばあちゃんに会いたいなら、頼めば良いだろう?僕が断ると思ったのか?」弥生は目を伏せた。「君が断らないという保証がどこにあるの?」当時おばあちゃんが亡くなった時、そばにいることができなかった。でも、何年も経った今なら、せめて墓前に行って、一目見ることくらいは許されるはずだと弥生は考えていた。瑛介は少し苛立っていた。彼女がこの数日間してきたことが、すべて取引のためだったと知ると、胸が締め付けられるように感じた。無駄に期待していた自分が馬鹿みたいだ。そう思うと、瑛介は落胆し、目を閉じた。なるほど、だから毎日やって来ても、一言も多く話してくれなかったわけだ。少し考えたあと、彼は決断した。「退院手続きをしてくれ。午後に連れて行くよ」その言葉を聞いても、弥生はその場から動かなかった。動かない様子を見て、瑛介は目を開き、深く落ち着
この鋭い言葉が、一日中瑛介の心を冷たくさせた。完全に暗くなる頃、ようやく弥生が姿を現した。病室のベッドに座っていた瑛介は、すごく不機嫌だった。弥生が自分の前に座るのを見て、瑛介は低い声で問いかけた。「なんでこんなに遅かったんだ?」それを聞いても、弥生は返事をせず、ただ冷ややかに瑛介を一瞥した後、淡々と言った。「道が混まないとでも思っているの?食事を作るのにも時間がかかるでしょ?」彼女の言葉を聞いて、瑛介は何も言えなくなった。しばらくして、弥生が食べ物を彼に渡すと、瑛介は沈んだ声で言った。「本当は、君が来てくれるだけでいいんだ。食事まで作らなくても......」「私が作りたかったわけではないわ」弥生の冷ややかな言葉に、瑛介の表情がわずかに変わった。「じゃあ、なぜ作った?」しかし弥生はその問いには答えず、ただ立ち上がって片付け始めた。背を向けたまま、まるで背中に目があるかのように彼に言った。「さっさと食べなさい」その言葉を聞き、瑛介は黙って食事を済ませた。片付けを終えた弥生は無表情のまま告げた。「明日また来るわ」そして、瑛介が何かを言う前に、早々と病室を後にした。残された瑛介の顔からは、期待が薄れていくのが見て取れた。傍にいた健司も、弥生がこんなにも淡々と、義務のようにやって来て、また早々と去っていくことに驚いていた。「彼女はなぜこんなことをするんだ?僕の病気のせいか?」瑛介が問いかけても、健司は何も答えられなかった。彼自身も、弥生の真意を掴めずにいたからだ。その後の数日間も、弥生は変わらず食事を運んできた。初めは流動食しか食べられなかった瑛介も、徐々に半固形の食事を口にできるようになった。そのたびに、弥生が作る料理も少しずつ変化していった。彼女が料理に気を配っていることは明らかだった。だが、その一方で、病室での態度は冷淡そのもの。まるで瑛介をただの患者として扱い、自分は決められた業務をこなす看護師であるかのようだった。最初はかすかに期待を抱いていた瑛介も、やがてその希望を捨てた。そして三日が過ぎ、四日目の朝、いつものように弥生が食事を持って来たが、瑛介は手をつけずにじっと座っていた。いつもなら時間が過ぎると弥生は「早く食べて」と促すが、今日は彼の方から先に口を開いた